連載 No.30 2016年05月22日掲載

 

言葉でなく直感で受け止める


今回の作品はちょっと抽象的なイメージ。

水面に映った上下でシンメトリーの構図だが、被写体の大きさや奥行きは、離れて見ると解りづらい。

水面は湖なのか、ひび割れた壁は大きな建物なのか。

そんな疑問を感じながら近づいて観察すると、この空間がそれほど大きなものではないことが読み取れる。



この作品に関してはちょっと不思議に思うことがある。

販売も進みそこそこ人気のあるイメージだが、

展示会場で「何を撮ったのか」「どういう状況で撮影した作品なのか」と聞かれたことがない。

熱心に観察する来場者に、ビルの屋上に育った小さな木々と、水溜りの映りこみを撮ったものだと説明するが、

相手はあまり興味を示さない。



私の想像だが、見る側は、まず画面全体のコンポジション(構図)を受け止める。

それから謎解きのように、細部の具体的なモチーフ(題材)を自分で探すことを、楽しんでいるのではないだろうか。

過剰に説明することが作品の魅力を減少させる場合もある。



大げさな芸術論ではないが、絵画と写真の表現領域の違いがはっきり現れるのは、抽象的な表現だと思う。

現実の対象を撮影して生み出される写真の場合、あっさり言ってしまえば、抽象という概念は存在しない。

それでも、作品を抽象的と感じるのは、

被写体の具体的なモチーフとはかけ離れたイメージを、見るものに与えるからだろう。



それを生み出すのは撮影者の意図に他ならない。

絵画であれば。何かから何かへ、絵筆は順を追って進んでいく。

その順番は作者が決め、書いていく順序はそれぞれに違う。

ここが写真との大きな違いで、写真の画面は全体を同時に均等に取得することが可能だ。

作者の個人的記憶や概念に左右される時間が、極めて少ない。



抽象と具象を隔てるものは、具体的なモチーフだ。

そしてそれは言葉と共にある。

私の作品であれば、それが写真であることすら忘れて、直感で受け止めてしてほしいと思う。

特定のモチーフを連想させるタイトルやキャプションは、かならずしも必要としない。



写真展に限ったことではないが、会場に入って作品を見る前に解説のキャプションを熱心に読んでいる人を見かけるる。

これは几帳面な日本人のよいところでもあるが、説明されてから先に進むというのは、

未知のものを誰かの誘導に従って解釈するわけで、一番おいしいところを失っているようにも感じられる。